2017年度第3回 パレスチナ/イスラエル研究会 報告
■武田祥英(千葉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程単位取得退学)
「バルフォア宣言の成立と政策化のプロセス」
武田報告は、バルフォア宣言の背景となる第一次大戦期の英国の対中東政策を検証した。とりわけ、宣言が成立した要因や政策化過程において、英国政府内にも多様な意見決定があったことを示し、帝国史の流れのなかで宣言がいかに位置づけられるかを検討した。
宣言に先立ち、英国政府によるパレスチナ確保を決定づけたのは、1915年のド・ブンセン委員会だったと言われている。確保案には当初、英国政府内でも相違があったが、地政学的関心からハイファを確保しようと積極的な働きかけを行ったインド省や石油担当らの資料から、政府内で合意が形成されていく過程が示された。当時の英国の対中東政策は、海軍力の維持や石油利用が拡大する戦後世界で影響力を行使する狙いから、同地域における石油資源の独占が最優先課題になりつつあったことが背景にある。
他方で、その統治手法については、ユダヤ人のパレスチナ入植を利用することで同地域への安価で安定的な政策を図ろうとする提唱が、政府内でも一定の支持を得ていた。そのような中、1917年6月にフランス外相カンボンがユダヤ人の復興を勧奨する手紙を出したことで、イギリス外相バルフォアも何らかの宣言を出すべきだという流れが生まれた。当時、パレスチナに対する重要性の認識は英国政府内でも相違があり、必ずしも英国単独で統治する必要性は重視されていなかった。だが同年10月には、英国政府内で宣言に対する賛否案が集約され、11月2日に宣言が公布された。
これらのことから、バルフォア宣言は、石油資源確保を見据えた同地域の支配を含む、戦後世界を再規定するための帝国主義政策の文脈のなかで、現地への影響力を確保しておきたい英国が暫定的に出した側面が大きいと報告者は解釈した。
本報告ではバルフォア宣言に至るまでの英国政府内の動向が、帝国史の流れに沿って詳細に提示されたが、質疑では宣言の起草過程や成立に誰が、どのように関わっていたのかがより詳しく分かればよかったとのコメントもあがった。
文責:南部真喜子(東京外国語大学大学院総合国際学研究科・博士後期課程)
■赤川尚平(慶應義塾大学大学院法学研究科・後期博士課程)
「イギリスのイスラーム政策からの再検討」
赤川氏の報告は、バルフォア宣言を中心とする所謂「三枚舌外交」の政策決定過程を、イギリスによるイスラーム認識、とりわけ第一次世界大戦前から継続してきたパン・イスラーム主義への対応という観点から読み直すというものであった。
先行研究としては、①イギリスの対中東・パレスチナ政策研究、②パン・イスラーム主義研究、③カリフ論研究が挙げられた。赤川氏は各々が個別に研究されてきたことを指摘したうえで、イスラーム認識と対中東政策という2つの文脈の接続を試み、これによって大戦期のイギリスの中東政策の底流のひとつを浮かび上がらせることが可能になると提唱し、この立場から議論が展開された。
まず、19世紀におけるパン・イスラーム主義の勃興は、イスラーム世界の精神的連帯という幻想を生み、イギリスはそうした認識を通じて中東政策を構築しようとていたことについて議論がなされた。すなわちイギリスは、オスマン帝国崩壊後における地域秩序の正当性を担保するものとして、イスラームとその精神的指導者としてのカリフに期待感を抱いていた。しかし結果的には、イギリスの本国・カイロ・インド政府間で、そしてムスリム間でも思惑の齟齬が表面化した。これによりイギリスにとっては当初の期待が幻想にすぎないことが判明すると、次第にイスラーム世界への関与を弱めていくこととなったのである。バルフォア宣言はというと、こうしてイギリスの政策から「イスラーム政策」としての性格が失われつつあったこの時期に、異なる文脈で生じた必要に対応する中で形成されたのであり、いわば「浮いた」存在であることが理解できると指摘した。加えて、バルフォア宣言をはじめとする「三枚舌外交」は、むしろイギリス内部が一枚岩ではなかったことを背景に生じたという示唆もなされた。
質疑での中心的議題としては、赤川氏の報告を含む、今回の3つの報告をどう位置付けて考えるか、といったものが目立った。とりわけイギリス史という視点から見た武田氏と赤川氏による報告は相補的なものとして捉えられるのかといった質問については、三枚舌外交においてバルフォア宣言が果たした役割の重要性について指摘がなされるなど、活発な議論が行われた。
文責:ハディ・ハーニ(慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科・後期博士課程)
■臼杵陽(日本女子大学文学部史学科教授)
「現地パレスチナでどう受け止められたか」
本報告では主として、バルフォア宣言内の文言の変遷を検討し、同宣言がパレスチナに与えた影響が議論された。
まず、起草段階で現れた5つの草稿のなかで変化した文言が検討されたが、ここからは舞台裏にあった閣僚たちの多様な思惑と、それを最終的には覆い隠す文言を採用する「老練さ」が示された。報告で特に重視されたのは、起草の途中段階で挿入された「パレスチナに存在する非ユダヤ人諸コミュニティ」 についての言及箇所である。この箇所は一見、パレスチナの先住者の権利を保証する内容に見えるが、それは結果的にパレスチナ・アラブ社会に分断を埋め込むものだったとされた。つまり、従来パレスチナのユダヤ教徒はアラビア語を話すパレスチナ・アラブ人の一部だったのだが、同宣言ではパレスチナにおける「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」というカテゴリーが設定されたため、パレスチナ・アラブ人からアラビア語話者であるユダヤ教徒を差し引いた「アラブ人」という発想が生まれたのである。
臼杵氏はこの点を、板垣雄三氏によるヨーロッパ的ユダヤ人問題のパレスチナへの押しつけだという議論と重ねつつ説明した。さらに、これは同宣言が現地にもたらした影響だったと同時に、パレスチナ・アラブ人の側も分断を意識せぬまま引き継いでしまった点が悲劇だとされた。そしてこの悲劇は、第1次世界大戦後の「民族」を単位とした分断という文脈(ギリシャ・トルコ、インド・パキスタンの分断など)に位置づける必要があるという広いパースペクティブが示されて報告が締めくくられた。
参加者からは、分断はどの程度意図的に生み出されたのか、分断をもたらす英の政策が現地で理解されるようになったのはいつかなどの質問が出た。また、パレスチナ・アラブ人の側からユダヤ教徒を括り出した例として言及されたムスリム・クリスチャン連合については、むしろ十字軍との重なりをほのめかした英アレンビー将軍の振る舞いに対抗した動きだという指摘があった。さらに、ユダヤ教徒との隣人関係が歴史的にあったパレスチナ・アラブ社会において、宣言中の「ユダヤ人の民族的郷土」とはいかなるものとして理解されたのか、宣言は委任統治下のパレスチナ・アラブ人の民族運動における「国家」の想像力にも影響したのではないか、との指摘も出た。
文責:金城美幸(日本学術振興会特別研究員RPD)