講演会「難民危機とシリア紛争のその後――ドイツの経験から学ぶ難民受け入れ」 報告
2015年の欧州難民危機で、EU諸国の中で最大の難民受け入れ国となったドイツの経験から、日本は何を学ぶことができるだろうか。この趣旨のもと、本講演会では、ドイツのベルリン市内に事務所を持つ移民/難民の青少年支援NGO「BBZ(Beratungs- und Betreuungszentrum)」の活動に関わるボランティア・スタッフのムハンマド・ジュニ氏、ならびにシリア紛争の悪化を受けてドイツに渡ったBBZ活動参加者のアイハム・バキール氏からお話をうかがった。
まず、講演者を招聘した錦田愛子氏の趣旨・背景説明では、2015年9月にドイツのメルケル首相は、難民が最初に到着したEU諸国で難民申請をするというダブリン協定の適用を事実上停止したことを背景に、ドイツが多くの難民を受け入れるに至った経緯や、各国の難民受け入れ状況について統計を基に説明した。続いて、難民がドイツ到着後に行う庇護申請の手続きでは、提出書類がすべてドイツ語で書かれ、ドイツの法律の知識が必要とされるために、ドイツ語が分からない難民への支援をNGOが担っている様子を説明した。
アイハム・バキール氏(1998年アレッポ生まれのシリア人)は、個人的体験に基づき、故郷であるシリアとの別離、ドイツ到着後の庇護申請の手続き、人種差別を受けた体験を中心に語った。アイハム氏はまず、祖母の病気療養を目的に、2週間の予定でレバノンに行ったはずが、シリア紛争悪化の影響で、故郷に帰れなくなった時の無念の思いを語った。シリアでの家やベット、家族や友人との日常、学校教育を突然喪失したと同時に、労働環境が悪いレバノンでは、長時間労働をしてもレバノン人の賃金の半分しか得ることができない現実に直面した。同じ頃、祖母がレバノンよりも治療費が安い欧州で、がんの継続治療の申請をしていた。約1年後、イタリア政府が祖母の治療の受け入れを表明したため、シリアに残っていた父以外、家族でイタリアに渡った。アイハム氏は家族とイタリアで2週間滞在した後、ドイツに向かった。そこで、シリアから地中海を渡ってドイツに到着した父と、1年半ぶりに再会することができた。父が地中海を渡っていた3日間、連絡を取ることができず、父は死んだのではないかと心配した。父との再会は嬉しかったが、自分とシリアとのつながりが断絶されてしまったと感じて悲しかった。
アイハム氏がドイツでの新たな生活で最初に収容されたのは、軍事キャンプのような場所であり、6人の家族が一部屋で生活しなければならなかったと語る。キャンプから移動する場合には事前申請が必要とされ、シャワーと食事の時間が決められ、トイレやシャワーは共同でプライバシーがなかった。将来が見えず、自分が無価値になったように感じて辛かった。4か月後、別の町に移り、4部屋ある小さな家で、他の家族と共同生活を送ることになった。また、難民認定に関して、ドイツで滞在許可を取得するには、ドイツ語で書かれた書類を提出する必要があり、非常に難解であったと語る。その上、通訳ボランティアの人数が不足しているため、通訳を手伝ってもらえるとは限らない。そこで兄とアイハム氏は無料の語学コースやYouTubeでドイツ語の勉強をした。滞在許可は郵送で通知されることになっている。精神的圧力に潰されそうになりながら、毎朝通知が届いたかどうか確認した。1年後に許可を得ることができた。
アイハム氏は、ドイツで受けた人種差別の経験の一部を語った。ドイツでの生活で精神的に追い詰められ、病院に行った時のことである。ドイツでは、病院は予約制である上に、ドイツ語で対応しなければならない。ドイツ語で予約を取り、病院に行くと、医師から「難民はドイツを駄目にしている。シリアに帰って戦いなさい」、さらにアイハム氏の症状は「シリアに帰らないと治らない」と言われた。こうした差別的発言を受け、しばらくショックが癒えなかったと語った。その後、ドイツでは、シリアの卒業証明書は経歴として認められないため、ドイツの学校に通い、9年生(日本では中学3年生に相当)までの夜間クラスを終えた。ドイツで難民認定が取れなかった人々の存在について語り、2015年の欧州危機による難民は、戦争による難民であると述べて講演を終えた。
次に、ムハンマド・ジュニ氏(1985年サイダー生まれのレバノン人)は、BBZのソーシャルワーカーという立場から、ドイツにおける難民認定の複雑なプロセス、難民の若年層がドイツで直面している諸問題、難民を支援するNGOの目的と活動内容について語った。初めに、庇護申請の手続きでは、難民はまず面接で、出身国で何が起こったのか、なぜここに来たのかと質問を受ける。面接が終わった後、庇護の認定または否認が言い渡される。庇護が認められた場合でも、どのカテゴリーの保護を受けられるのかによって、家族の呼び寄せや社会的保護が異なる点を指摘した。一方、庇護が認められなかった場合、一般的には強制退去になる。だが実際は、出身地で続く戦争を理由に、送還停止という立場に置かれている人々がたくさん存在することが指摘された。また、庇護を申請する各人の出身国によって、ドイツ国籍の取得までにかかる時間が異なる点を挙げた。例えば、レバノン、ギニア、エジプトなどの出身者は国籍取得までに3年から5年かかると述べた。
続いて、ドイツでの難民に対する人種差別に関しては、2015年から2016年にかけて難民を歓迎していた雰囲気が大きく一変し、現在では、難民が収容されるキャンプへの攻撃が増加傾向にある点を指摘した。人種差別の一例として、個人レベルでは、通りで唾をかけられる、ヒジャーブを取られる、罵倒されることが挙げられた。組織レベルでは、難民専用のキャンプでの住居選択の不自由と登録制により、家族が一緒に住むことができずコミュニティが切り離される点、他の町に外出する際に事前に許可が必要である点を指摘した。
最後に、ムハンマド氏はBBZと、BBZ内部の一組織である「国境なき若者たち(Youth Without Borders)」の活動について述べた。ムハンマド氏自身の体験として、13歳の時ドイツに移住したが、当初は庇護申請が通らず、送還停止の立場であった。BBZのカウンセリングを受けた時、この立場では、ドイツで大学教育や職業訓練を法的に受けることができない現実を初めて知り、ショックを受けた。当時、担当のソーシャルワーカーから、BBZの活動に勧誘されたことを契機に、現在に至るまで活動を行っている。
BBZの活動は、2004年頃の会議で、難民の若年層が自分たちの苦難を、ドイツの政治家に説明するべきだと議論したことで始まった。それを実現するべく2005年に州内務大臣会議の実施場所と同じ場所で、80人以上の若年層の難民を集めて会議を開き、それが成功した経緯を語った。BBZの活動目的として、若年層の難民が自身の声で語ること、難民自身が自分の権利と想像力を働かせる主体であり、自分を恥じないように伝えることを挙げている。具体的に言えば、難民の教育へのアクセスを求めるアドボカシー活動を行ったり、「我々抜きに語ることはできない」というスローガンの下、政治家との会合を定期的に開催したりしている。さらに、難民への情報提供として、庇護申請の手続きや学校教育を受ける方法などに関する冊子の発行、ドイツでの生活情報を提供するための公開イベントの開催などが紹介された。
全体討論では、ドイツ国内の高齢化により労働需要が高まっている背景のもと、送還停止の立場にある若年層が、個別に職業訓練という形態で働くことは可能になったが、これは人道的な制度ではなく、経済的理由によるものである点、その上、難民は建築現場や看護を始めとする、ドイツで働き手が少ない職業分野で働くことを強く斡旋される状況がある点などが議論された。さらに、2015年危機によってドイツに渡った難民と、それ以前に既にドイツに来ていたシリア移民との関係性、シリアとドイツの間における故郷への意識、ドイツ国内で医師不足が深刻化する一方で、医師免許を持つ難民が医師として働くことができない現実などを中心に、ドイツにおける難民認定が抱える諸問題、移民/難民支援体制の実態について、非常に多くの質疑がなされた。研究者に加え、多くの学生や一般の方々が参加し、活発な議論が交わされた。
文責:児玉恵美(東京外国語大学総合国際学研究科・博士後期課程)